東北のうぶごえ
縄文人
エジプトのクフ王の時代の5,500年前に縄文人が三内丸山の地に生活していた。
20年程前、みちのくに縄文の巨大遺跡が次々と発掘され話題を呼んだ。
青森市より車で西南に約30分津軽半島と下北半島に抱かれた陸奥湾の内懐の位置に大型掘立柱建物跡、糸魚川産の翡翠の装身具・縄文土器・漆器などから縄文人の生活の様子が明らかにされつつある。
柱穴の深さ1.5m以上、直径1mのブナ科落葉樹の栗材6本の柱列の大型掘立柱建物を復元したものが迎えてくれる。
モンゴロイドの縄文人達が ベーリング海峡を南下し、カムチャッカを経て 北海道・東北に定住する。
彼らの生活実態が三内丸山の遺跡に刻まれる、日本の黎明期の産声である。
三内丸山の人々は何を食べていたか? ゴミ捨て場の谷から動物や魚の骨、植物の種子・木の実、漆器や木製品等が時代順に堆積していたことから、1,500年以上にわたり生活していたこと、魚は陸奥湾の鯛・平目・鯵・鰹、タコ、淡水の鮒・鯉・タニシ等であること、動物はシカ・イノシシ・ムササビ等、植物はモモ・栗・クルミ・トチの実・茸類等々が確認されている。
陸奥湾沿いに松前街道を北上すると、平館灯台の手前に大平山元遺跡(外ヶ浜町)の文字が目に入る。三内丸山より更に数千年さかのぼる草創期の縄文遺跡で約9,000年前と推定される。陸奥湾の対岸の六ヶ所村の表館遺跡、八戸市の鴨平遺跡等10数か所の遺跡から土器や漆器が発掘されていることから縄文人の食生活と集落の規模や工芸品の伝播の様子がうかがわれる。
現在の研究では、群馬県岩宿で旧石器時代約3万年前の遺跡が日本で初めて発見、約2万年前の旧石器人の人骨(港川人)が沖縄県具志頭村で発見、鹿児島県上ノ原で約9,500年前に大集落が作られる。約8,000年前には北海道中野で、そして三内丸山遺跡へと続いた。
尚、秋田県鹿角市には大湯環状列石が遺跡後から発掘され縄文後期と推定され、
祭場説や墓地説があると後で知った。三内丸山の柱列跡にも夏至と冬至の日の入りを測定する説がある。
縄文時代の東北は物資の交流の拠点であり、日本のまほろばであった。
弥生人
東北の弥生人と聞くとおやと思うが、その弥生人が東北の地でコメ作りをしていたのである。弥生人も米作も九州の地が稲作発祥の地であり、その周辺が米作中心地のはずではないのかと思っていた。
ところが、青森県砂沢町に続き、垂柳遺跡で東北で初めての弥生時代2,100年前の水田跡が発見された。1958年国道102号線の工事の発掘調査の際、大量の遺物と200粒以上の炭化米が発見されたことで証明された。大規模な水田経営は垂柳、宮城県富沢、福島県番匠地域でも行われていたと知る。
弥生早期2,400年前 朝鮮から稲作が伝わり、わずか300年後には日本列島を北上し東方区地方一帯でも米作りが行われていたのである。約2,300年前頃 大陸から青銅器・鉄器が伝わり耕作が容易になったことも米作の普及に大きく貢献している。
稲作は揚子江の中・下地域(彭頭山遺跡・河姆渡遺跡)→山東半島→朝鮮→北九州へのルートで、陸稲系のジャポニカ米と水稲系のインディカ米の二種類が伝わって来た。
八戸三社大祭の一つは新羅神社であることからも、稲作の伝播の過程での朝鮮人との交流の歴史が読み取れる。
2,100年前の水田跡に残る弥生人の足跡現代の子供サイズ程
小規模単位の水田の畔
あぜ・くろ・ハン、バン とも呼ばれる
発掘した状態の垂柳の水田跡が残っている。水田の畔は極めて小さなサイズで作られている。
* 畔や畝を造る木や石の道具が未熟であったこと(青銅器や鉄器は未普及)、
* 水田の温める温度管理を容易にすること
* 田の水平を取り易くすること
の理由から小さなサイズにしたと考えられるとの解説をお聞きする。
日本はみずみずしい稲穂のみのる国であることから瑞穂の国と美称で呼ばれる。
日本の稲作文化はこの畔=畦=くろ=あぜを丁寧に作り守ったことから美しい国土が持続されたと考えられる、2,100年前から連綿と続く稲作の担い手と文化の継承者への感謝と労作へのねぎらいの気持ちが湧き起こる。
一粒万倍の米もみを採取・保管し、一粒百行の農作業を行い子孫繁栄に導き、
米を発酵させ麹をつくり、酒や酢を醸造する知恵の伝承が連綿と行われている。
美しい国土に宿る心も美しい。
久慈市 古代の琥珀
ロシアの女帝エカテリーナの胸を飾る琥珀、六本木の止まり木の女性の琥珀のイヤリング が琥珀のイメージであるが。久慈市の博物館の琥珀は正に地中から掘り出された太古の物であり、リトアニアの琥珀の工芸品はクリスタルガラスや翡翠の工芸品を連想させる。
ポーランドのグダンスク、ロシアのカニングラードが世界の85%を占め、近隣のリトアニアや遠くニュージーランド、日本でも産出される。
琥珀は古代のタイムカプセルと言われ、琥珀のしずくの中に古代の蚊や昆虫を閉じ込めてしまう。ところがここには、約2万年前 北海道千歳市柏台 出土の琥珀製小玉が展示されている。穴があり加工されている、美に対する人間の欲求の深さ・顕示欲を見る思いである。
久慈からは約5,000年前の縄文時代の遺跡から沢山の琥珀原石が出土いる。又古墳時代の古墳から出土した琥珀製の勾玉や丸玉などが久慈産のものであることが解明されている。
久慈出土の琥珀
同時に、日本という国の民族の重層さ、一般的にバイカル湖畔起源説や中国南部から移入説・北方騎馬民族説・タミール説・ユダヤの末裔説 枚挙にいとまがない。
最近のNHKの番組で、“国立遺伝子研究所の斎藤成也教授の“縄文時代1万6千年前~3千年位まで日本列島北から南まで縄文土器を作っていた人達がいた”と報道された。日本人のルーツをたどるDNAの解明では日本人は世界でも独特の遺伝子を持つ国民で、縄文人のDNAが残っていることも分かった。
日本中に弥生人がもたらした陸稲・水稲の米作が浸透して、縄文人が滅んだのではなく、ヤシの実に代表される多くの植物が日本列島に流れ着いた如く、弥生人を始め多くの民族が流入し混血を繰り返した。古代性と現代性、各種民族の素晴らしさを美しい自然の中で育成してきた民族である。
アフリカの母が世界の人種のルーツである如く、
縄文の母が日本人のルーツであったのである。
東北の見どころ
寒立馬
下北半島のまさかり形の太平洋岸は尻尾崎。
岬の部分に草原がつつましく広がる。その草原が広がる手前、車道を挟んだ両側に寒立馬が放牧されている。
重心の低い足はふさふさの毛でおおわれている。
体重は500kgsを超すと思われる大きな馬体、
ゆったりとした動作であるが、草を食む動作だけは早食いである。馬体の色は様々で、黒も薄茶もぶちも混じる。海を見おろす大地にゆったりしている姿は名優ハンフリー・ボガードの顔つきに見えてくる。
尻尾崎の寒立馬
道の駅の詩人
秋田県の道の駅 “岩城”に 四行詩を見つけた。
ここには東からくる人もおります
それから西からくる人もおります
そして 南からくる人もおります
だから 北なくしないでください
思わずやられたーと思う心憎い演出である。書いた市役所の詩人も素敵だが、市長か何方か上司も素晴らしい。岩城の役所の宮沢賢治を発見してしまった。(東西南北の方位は雨にも負けずの詩の順番である)
田んぼアート
稲を絵具に見立て、稲の田んぼに立体の映像を創りだす。映画の3D映像と見えなくもない。デッサン画に基づき、色の違う稲を図案に合わせ植え付け成長させる。
青森県田舎館村田んぼアート
岩手県志波町の八幡田んぼアート スター・ウォーズ
志波町は民俗資料館の裏のたんぼに鹿の祭の民族衣装が突然現れる。
田舎館村のものは画像が大きく、地上からでは全貌が見えないので、特設の展望台へエレベーターに乗り鑑賞する。今年で20年とのことで、画像が鮮明である。
8,100人の村で子供達を含む総出の一大イベントである。この絵画の終了後刈り取った稲でご飯を炊き、おにぎりにして皆さんでほおばる様子の写真展示が秋祭や芋煮会の様に晴れやかであった。
友人の案内の為二度訪れたが両日とも展望台は観客で列をなしていた。
2,100年前の弥生時代の稲作の地での掛かる行事は何よりの史実と稲文化の継承となるので、来年もどの様なテーマ想に何でこの様に美しい作品ができたかと思わせて頂きたいものである。
旅の出会い
突然車のドアをノックされる。 同じ多摩ナンバーなのでと同年配のご夫妻が声を掛けてくる。
日本一周の女性自転車の旅のうら若きS譲はきれい好き、薄暮に温泉の風呂に入るべく5キロ離れた山道を往復する。 坂道の下りが見えにくかったと淡々と語る。
その日150キロ 走破した後の事である。
上智大学の学生はユースホテルをハシゴして、青森・弘前・五所川原のねぶた祭りを堪能し、仙台の七夕祭最終とする夏季休暇。
ホヤに初挑戦のジェイコブ君(アメリカ)
帰国子女のお嬢さんは法律を勉強中であるが、
祭りの期間弘前のユース・ホテルでアルバイトとの事。
台湾から来たマレーシア人の若者とは八戸のねぶた祭を共にする。アメリカ人の学生も誘い五所川原のねぶたセンターを鑑賞する。
マレーシアとアメリカの友人からねぷた祭の細部にわたり質問を受ける。中学生を引率する先生と父親代わりのひと時を楽しむ。
ジェイコブ君がホヤを食べたいと言うので、魚市場で一個300円のホヤをその場でさばいて貰うと、二人とも抵抗なく食べる。地場で食べる新鮮なホヤは外国の方にも抵抗のない味覚で、海水のほのかな塩気だけで充分美味しく頂いた。
生魚の刺身は弱いと言っていた李君もご満悦であった。刺身の盛り合わせ500円は
魚市場ならではの雰囲気の中値段以上の美味さであった。
東北で出会う人々も魚も皆活力に満ちている。
今回食べた中ではホヤの刺身と塩辛、ジュンサイを頂き季節の触感とのど越しを堪能した。勿論 高清水や福小町、龍泉洞の水を使った超辛口も少々含んでは見ました。
旅での不思議
自動車の速度: 東北6県では車を売買する時速度メーターを取り外して販売する。
各人は自分の速度計で自由奔放にカーチェイスの如く運転する。
初心者マークの軽自動車が制限速度を20~30km程オーバーして追抜いて行く。
これが一台でなく次々と追抜く、ナンバーを見ると“庄内”でしょうがないと思ったが、秋田も青森も皆 自己制御システムを導入している。
もう一つ、ラジオの電波も自分勝手である トンネルやカーブの県境になると急に電波が乱れる。チャンネルを換えると、聞き取りやすくなる。ところが、県境ばかりでない別個の放送エリアもある模様である。 盛岡や秋田放送の電波の問題なのか、エリアの問題なのか。
まさか 南部藩と津軽藩や庄内藩の過去の縄張り争いの葛藤が尾を引いているはずはないのだが。
椀子蕎麦
岩手県の郷土料理。
給仕人が椀に盛ったそばを客の椀に次々に投げ入れ、満腹になるまでもてなすもの。この地方の殿さまがお腹をすかせた客人に 蕎麦を持て成すのに一度に 多くの人に少しでも早くお出ししたいので、公平に行き渡るように小さな椀で、ゆで上がるたびに供したのが好評であったのが始まりとお聞きする。
わんこ蕎麦 初挑戦
昼食に立ち寄ったが、鳥そぼろ、なめこおろし、とろろ、刺身など9品の並ぶ膳に、大き目の椀をしっかり持ちそこに投げ入れる。黙々と沢山食べようとするが、説明や掛け声があり、景気をつけながら楽しく給仕して頂く。隣の家族は旦那が103杯、
ご婦人とお嬢さんは73杯づつ。私は88杯であった。お椀10杯で盛り蕎麦1人前、最高はとお聞きすると500杯と信じられない数字。
源義経伝説
鎌倉幕府の追補の手を逃れて、平泉の藤原秀衡公の庇護を受けるべく義経・弁慶主従は平泉の地を踏んだ。
しかし、秀衡公の病死後、泰衡に襲われ、衣川の館で自殺したことになっているが不明な点が多く、義経伝説となっている。
歌舞伎十八番の内で現在最も人気のあるのは「勧進帳」である。
山伏問答・呼び止め、押し合い・折檻など 豪快な演出の後の、富樫の人情や義経
主従の場面は日本人の心情に熱くうったえる。
「腰越」では 莫大な勲功を黙せる為のざんげんにより、窮地に追い込まれる義経の
おそれかしこまる様子が語られる。
平家琵琶の世界でも語り継がれ、謡曲、義太夫、長唄でも数多くの名吟として残る。
甲冑を枕に、駿馬に鞭うち、ある時は大海の風波の難を凌ぎ平家一族追討する。
源氏の隆盛のいしづえを築いたにも関わらず悲運の将として追われる身となる。
薄幸の九郎判官義経に同情し、愛惜する気持ちが人々に伝わり、「判官びいき」
と言う言葉としても世間に知れ渡る。
この為、藤原三代の平泉の地のみならず義経にまつわる話の数々が東北の各地に残り、碑や墓も多い。
更に モンゴルに行きジンギスカンになったとの説や ロシアに渡ったとする説も残り、ロシアには義経主従にまつわる日本名や地名も多いと伝えられている。
義経と静御前の墓標
-東北の祭 へつづくー
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by kodaira220
| 2015-10-16 17:46
| 旅