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バック・パッカーの一人旅をお勧めします。


by kodaira220

東北 片思い


   東北のうぶごえ

縄文人

 エジプトのクフ王の時代の5,500年前に縄文人が三内丸山の地に生活していた。
20年程前、みちのくに縄文の巨大遺跡が次々と発掘され話題を呼んだ。
青森市より車で西南に約30分津軽半島と下北半島に抱かれた陸奥湾の内懐の位置に大型掘立柱建物跡、糸魚川産の翡翠の装身具・縄文土器・漆器などから縄文人の生活の様子が明らかにされつつある。
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柱穴の深さ1.5m以上、直径1mのブナ科落葉樹の栗材6本の柱列の大型掘立柱建物を復元したものが迎えてくれる。

 モンゴロイドの縄文人達が ベーリング海峡を南下し、カムチャッカを経て 北海道・東北に定住する。
彼らの生活実態が三内丸山の遺跡に刻まれる、日本の黎明期の産声である。

三内丸山の人々は何を食べていたか? ゴミ捨て場の谷から動物や魚の骨、植物の種子・木の実、漆器や木製品等が時代順に堆積していたことから、1,500年以上にわたり生活していたこと、魚は陸奥湾の鯛・平目・鯵・鰹、タコ、淡水の鮒・鯉・タニシ等であること、動物はシカ・イノシシ・ムササビ等、植物はモモ・栗・クルミ・トチの実・茸類等々が確認されている。

陸奥湾沿いに松前街道を北上すると、平館灯台の手前に大平山元遺跡(外ヶ浜町)の文字が目に入る。三内丸山より更に数千年さかのぼる草創期の縄文遺跡で約9,000年前と推定される。陸奥湾の対岸の六ヶ所村の表館遺跡、八戸市の鴨平遺跡等10数か所の遺跡から土器や漆器が発掘されていることから縄文人の食生活と集落の規模や工芸品の伝播の様子がうかがわれる。

 現在の研究では、群馬県岩宿で旧石器時代約3万年前の遺跡が日本で初めて発見、約2万年前の旧石器人の人骨(港川人)が沖縄県具志頭村で発見、鹿児島県上ノ原で約9,500年前に大集落が作られる。約8,000年前には北海道中野で、そして三内丸山遺跡へと続いた。


 尚、秋田県鹿角市には大湯環状列石が遺跡後から発掘され縄文後期と推定され、
祭場説や墓地説があると後で知った。三内丸山の柱列跡にも夏至と冬至の日の入りを測定する説がある。
縄文時代の東北は物資の交流の拠点であり、日本のまほろばであった。

弥生人

 東北の弥生人と聞くとおやと思うが、その弥生人が東北の地でコメ作りをしていたのである。弥生人も米作も九州の地が稲作発祥の地であり、その周辺が米作中心地のはずではないのかと思っていた。
ところが、青森県砂沢町に続き、垂柳遺跡で東北で初めての弥生時代2,100年前の水田跡が発見された。1958年国道102号線の工事の発掘調査の際、大量の遺物と200粒以上の炭化米が発見されたことで証明された。大規模な水田経営は垂柳、宮城県富沢、福島県番匠地域でも行われていたと知る。

 弥生早期2,400年前 朝鮮から稲作が伝わり、わずか300年後には日本列島を北上し東方区地方一帯でも米作りが行われていたのである。約2,300年前頃 大陸から青銅器・鉄器が伝わり耕作が容易になったことも米作の普及に大きく貢献している。

稲作は揚子江の中・下地域(彭頭山遺跡・河姆渡遺跡)→山東半島→朝鮮→北九州へのルートで、陸稲系のジャポニカ米と水稲系のインディカ米の二種類が伝わって来た。  
八戸三社大祭の一つは新羅神社であることからも、稲作の伝播の過程での朝鮮人との交流の歴史が読み取れる。

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2,100年前の水田跡に残る弥生人の足跡現代の子供サイズ程
                      小規模単位の水田の畔
                      あぜ・くろ・ハン、バン とも呼ばれる


 発掘した状態の垂柳の水田跡が残っている。水田の畔は極めて小さなサイズで作られている。
* 畔や畝を造る木や石の道具が未熟であったこと(青銅器や鉄器は未普及)、
* 水田の温める温度管理を容易にすること
* 田の水平を取り易くすること
の理由から小さなサイズにしたと考えられるとの解説をお聞きする。

 日本はみずみずしい稲穂のみのる国であることから瑞穂の国と美称で呼ばれる。
日本の稲作文化はこの畔=畦=くろ=あぜを丁寧に作り守ったことから美しい国土が持続されたと考えられる、2,100年前から連綿と続く稲作の担い手と文化の継承者への感謝と労作へのねぎらいの気持ちが湧き起こる。

一粒万倍の米もみを採取・保管し、一粒百行の農作業を行い子孫繁栄に導き、
米を発酵させ麹をつくり、酒や酢を醸造する知恵の伝承が連綿と行われている。
美しい国土に宿る心も美しい。

久慈市 古代の琥珀

 ロシアの女帝エカテリーナの胸を飾る琥珀、六本木の止まり木の女性の琥珀のイヤリング が琥珀のイメージであるが。久慈市の博物館の琥珀は正に地中から掘り出された太古の物であり、リトアニアの琥珀の工芸品はクリスタルガラスや翡翠の工芸品を連想させる。
ポーランドのグダンスク、ロシアのカニングラードが世界の85%を占め、近隣のリトアニアや遠くニュージーランド、日本でも産出される。
 琥珀は古代のタイムカプセルと言われ、琥珀のしずくの中に古代の蚊や昆虫を閉じ込めてしまう。ところがここには、約2万年前 北海道千歳市柏台 出土の琥珀製小玉が展示されている。穴があり加工されている、美に対する人間の欲求の深さ・顕示欲を見る思いである。

 久慈からは約5,000年前の縄文時代の遺跡から沢山の琥珀原石が出土いる。又古墳時代の古墳から出土した琥珀製の勾玉や丸玉などが久慈産のものであることが解明されている。

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久慈出土の琥珀

同時に、日本という国の民族の重層さ、一般的にバイカル湖畔起源説や中国南部から移入説・北方騎馬民族説・タミール説・ユダヤの末裔説 枚挙にいとまがない。
最近のNHKの番組で、“国立遺伝子研究所の斎藤成也教授の“縄文時代1万6千年前~3千年位まで日本列島北から南まで縄文土器を作っていた人達がいた”と報道された。日本人のルーツをたどるDNAの解明では日本人は世界でも独特の遺伝子を持つ国民で、縄文人のDNAが残っていることも分かった。

日本中に弥生人がもたらした陸稲・水稲の米作が浸透して、縄文人が滅んだのではなく、ヤシの実に代表される多くの植物が日本列島に流れ着いた如く、弥生人を始め多くの民族が流入し混血を繰り返した。古代性と現代性、各種民族の素晴らしさを美しい自然の中で育成してきた民族である。

アフリカの母が世界の人種のルーツである如く、
縄文の母が日本人のルーツであったのである。

 東北の見どころ
寒立馬 
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下北半島のまさかり形の太平洋岸は尻尾崎。
岬の部分に草原がつつましく広がる。その草原が広がる手前、車道を挟んだ両側に寒立馬が放牧されている。
重心の低い足はふさふさの毛でおおわれている。
体重は500kgsを超すと思われる大きな馬体、
ゆったりとした動作であるが、草を食む動作だけは早食いである。馬体の色は様々で、黒も薄茶もぶちも混じる。海を見おろす大地にゆったりしている姿は名優ハンフリー・ボガードの顔つきに見えてくる。
尻尾崎の寒立馬


道の駅の詩人
 
 秋田県の道の駅 “岩城”に 四行詩を見つけた。

ここにはからくる人もおります
それから西からくる人もおります
そして からくる人もおります
だから なくしないでください

思わずやられたーと思う心憎い演出である。書いた市役所の詩人も素敵だが、市長か何方か上司も素晴らしい。岩城の役所の宮沢賢治を発見してしまった。(東西南北の方位は雨にも負けずの詩の順番である)

田んぼアート

 稲を絵具に見立て、稲の田んぼに立体の映像を創りだす。映画の3D映像と見えなくもない。デッサン画に基づき、色の違う稲を図案に合わせ植え付け成長させる。


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                          青森県田舎館村田んぼアート
岩手県志波町の八幡田んぼアート           スター・ウォーズ

志波町は民俗資料館の裏のたんぼに鹿の祭の民族衣装が突然現れる。
田舎館村のものは画像が大きく、地上からでは全貌が見えないので、特設の展望台へエレベーターに乗り鑑賞する。今年で20年とのことで、画像が鮮明である。
8,100人の村で子供達を含む総出の一大イベントである。この絵画の終了後刈り取った稲でご飯を炊き、おにぎりにして皆さんでほおばる様子の写真展示が秋祭や芋煮会の様に晴れやかであった。

友人の案内の為二度訪れたが両日とも展望台は観客で列をなしていた。
2,100年前の弥生時代の稲作の地での掛かる行事は何よりの史実と稲文化の継承となるので、来年もどの様なテーマ想に何でこの様に美しい作品ができたかと思わせて頂きたいものである。


旅の出会い  

突然車のドアをノックされる。 同じ多摩ナンバーなのでと同年配のご夫妻が声を掛けてくる。
日本一周の女性自転車の旅のうら若きS譲はきれい好き、薄暮に温泉の風呂に入るべく5キロ離れた山道を往復する。 坂道の下りが見えにくかったと淡々と語る。
その日150キロ 走破した後の事である。

上智大学の学生はユースホテルをハシゴして、青森・弘前・五所川原のねぶた祭りを堪能し、仙台の七夕祭最終とする夏季休暇。

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ホヤに初挑戦のジェイコブ君(アメリカ)


帰国子女のお嬢さんは法律を勉強中であるが、
祭りの期間弘前のユース・ホテルでアルバイトとの事。

台湾から来たマレーシア人の若者とは八戸のねぶた祭を共にする。アメリカ人の学生も誘い五所川原のねぶたセンターを鑑賞する。
マレーシアとアメリカの友人からねぷた祭の細部にわたり質問を受ける。中学生を引率する先生と父親代わりのひと時を楽しむ。

ジェイコブ君がホヤを食べたいと言うので、魚市場で一個300円のホヤをその場でさばいて貰うと、二人とも抵抗なく食べる。地場で食べる新鮮なホヤは外国の方にも抵抗のない味覚で、海水のほのかな塩気だけで充分美味しく頂いた。
生魚の刺身は弱いと言っていた李君もご満悦であった。刺身の盛り合わせ500円は
魚市場ならではの雰囲気の中値段以上の美味さであった。
東北で出会う人々も魚も皆活力に満ちている。

今回食べた中ではホヤの刺身と塩辛、ジュンサイを頂き季節の触感とのど越しを堪能した。勿論 高清水や福小町、龍泉洞の水を使った超辛口も少々含んでは見ました。


旅での不思議

 自動車の速度: 東北6県では車を売買する時速度メーターを取り外して販売する。
各人は自分の速度計で自由奔放にカーチェイスの如く運転する。
初心者マークの軽自動車が制限速度を20~30km程オーバーして追抜いて行く。
これが一台でなく次々と追抜く、ナンバーを見ると“庄内”でしょうがないと思ったが、秋田も青森も皆 自己制御システムを導入している。

 もう一つ、ラジオの電波も自分勝手である トンネルやカーブの県境になると急に電波が乱れる。チャンネルを換えると、聞き取りやすくなる。ところが、県境ばかりでない別個の放送エリアもある模様である。 盛岡や秋田放送の電波の問題なのか、エリアの問題なのか。
まさか 南部藩と津軽藩や庄内藩の過去の縄張り争いの葛藤が尾を引いているはずはないのだが。


椀子蕎麦

 岩手県の郷土料理。
給仕人が椀に盛ったそばを客の椀に次々に投げ入れ、満腹になるまでもてなすもの。この地方の殿さまがお腹をすかせた客人に 蕎麦を持て成すのに一度に 多くの人に少しでも早くお出ししたいので、公平に行き渡るように小さな椀で、ゆで上がるたびに供したのが好評であったのが始まりとお聞きする。
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                わんこ蕎麦 初挑戦

 昼食に立ち寄ったが、鳥そぼろ、なめこおろし、とろろ、刺身など9品の並ぶ膳に、大き目の椀をしっかり持ちそこに投げ入れる。黙々と沢山食べようとするが、説明や掛け声があり、景気をつけながら楽しく給仕して頂く。隣の家族は旦那が103杯、
ご婦人とお嬢さんは73杯づつ。私は88杯であった。お椀10杯で盛り蕎麦1人前、最高はとお聞きすると500杯と信じられない数字。


源義経伝説


鎌倉幕府の追補の手を逃れて、平泉の藤原秀衡公の庇護を受けるべく義経・弁慶主従は平泉の地を踏んだ。
しかし、秀衡公の病死後、泰衡に襲われ、衣川の館で自殺したことになっているが不明な点が多く、義経伝説となっている。

歌舞伎十八番の内で現在最も人気のあるのは「勧進帳」である。
山伏問答・呼び止め、押し合い・折檻など 豪快な演出の後の、富樫の人情や義経
主従の場面は日本人の心情に熱くうったえる。

「腰越」では 莫大な勲功を黙せる為のざんげんにより、窮地に追い込まれる義経の
おそれかしこまる様子が語られる。
平家琵琶の世界でも語り継がれ、謡曲、義太夫、長唄でも数多くの名吟として残る。

甲冑を枕に、駿馬に鞭うち、ある時は大海の風波の難を凌ぎ平家一族追討する。
源氏の隆盛のいしづえを築いたにも関わらず悲運の将として追われる身となる。
薄幸の九郎判官義経に同情し、愛惜する気持ちが人々に伝わり、「判官びいき」
と言う言葉としても世間に知れ渡る。

この為、藤原三代の平泉の地のみならず義経にまつわる話の数々が東北の各地に残り、碑や墓も多い。

更に モンゴルに行きジンギスカンになったとの説や ロシアに渡ったとする説も残り、ロシアには義経主従にまつわる日本名や地名も多いと伝えられている。

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義経と静御前の墓標


      -東北の祭 へつづくー
# by kodaira220 | 2015-10-16 17:46 |

東北 片思い



      東北の英雄

慈覚大師円仁

東北を旅していて、何時も意識の中に英雄像が浮びくる。
慈覚大師円仁のお名前である。参拝した折に頂いた資料によれば、

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青森県の恐山は862年円仁によって開山とある。
正式名称は 伽羅陀山菩提寺。
外輪山の宇曽(うそ)利(り)山が下北なまりにより恐山に変化
したと言われる。 恐山以外の 円仁の偉業は

岩手県の中尊寺は 850年 円仁の草創。
宮城県松島の瑞巌寺は828年 円仁の開創。
山形県の立石寺も 860年 円仁の開創。

霊場恐山の総門

グーグルで調べると、円仁開山と言われるところは
上記を含め、東北に331寺、関東には浅草寺、
目黒不動の龍泉寺等209寺を数えるとある。

平安時代830年と850年に起ったM7クラスの二度の地震が出羽の国を襲った。
この地震の民の救済と仏教の普及を清和天皇から仰せつかったので、かかる精力的な布教活動を成したと云われるが、円仁の人気と徳が如何に高く響き渡っていたかを意味する。又弟子達が開山したとしても、円仁の名を借りたところが少なくなかったと思われる。

 円仁は第三代天台座主であるが、日本最初の大師号 慈覚大師を授けられている。
以後、最澄に伝教大師、空海に弘法大師が授けられている、言葉通り伝える大師と広める大師との意味であれば 慈覚の号の格が高いことが歴然で、朝廷で如何に高い評価であったかが分かる。

 比叡山延暦寺が入滅の地とされているが、立石寺にも遺骨の一部が納められていると言い伝えられ、信じられている。考古学者の森浩一氏は平安時代から立石寺は円仁のお墓の場所だと深く信じられていると述べている。

 ところが、円仁の研究となると日本の研究者でなく、エドウィン・ライシャワー
元駐米大使が円仁の「入唐求法巡礼行記」を翻訳している。
東北の震災後、日本人に帰化され、文化勲章授与者で日本文学に精通されているドナルド・キーンさんのハーバート大学の先生であったが、お二人の日本文学研究者は日本文学における円仁さんの様な学問の探究者である。
 学生時代にライシャワー夫妻にコーネル大学の学生たちとアメリカ大使館に招かれた幸運の思い出がある。その折の大使ご夫妻の高潔な印象がなつかしく思い起こされる。

坂上田村麻呂と阿弖流(あてる)為(い)

 奥の細道の壺の碑(いしぶみ)(多賀城碑)は江戸時代の初めに発見され、碑には「京を去ること一千五百里、蝦夷国の界を去ること二百二十里・・・」と碑に刻されている。
多賀城には陸奥の国の国府が置かれ、蝦夷征討政策にあたった鎮守府もおかれていたとされている。

 円仁(794~864)に先んじ、坂上田村麻呂(758~811)は平安初期東北の地・多賀城に立った。為政者朝廷側の武将として、その敵対する相手側に阿弖流為が率いる蝦夷の勢力がいた。蝦夷とはアイヌ民族を指すとの説もあるが、特定の異種民族指すのではなく中央政府に服さなかった東北部日本の住民全体(アイヌ人も含む)を指すと考えるのが妥当である。

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 多賀城祉が蝦夷との北端の城柵かと思っていたが胆沢(いさわ)城祉と徳丹城祉があることが分かり順次訪れた。すると徳丹城造営の前に志波城が最北端であったと判明した。    
復元された 志波城の門

志波城は桓武天皇の命を受けた田村麻呂により803年造営された。志波城は北上川と
雫石川を利用する水上交通の要所であったが、雫石川の氾濫により約10年で放棄され、その資材を使い新たに徳丹城が造営された。

この城址は田村麻呂を筆頭に朝廷軍と阿弖流為を長とする蝦夷側との攻防の分水嶺であった。
789年朝廷は東北鎮軍を送るが胆沢城にてアテルイに退けられる。

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阿弖流(あてる)為(い)と母禮(もれ)の慰霊碑 
徳丹城址 記念館内

アテルイと同じ胆沢出身の志波村の主長アヌシキは時代の趨勢を読み切ったのか、
朝廷の下に入り帰属を願った。争うのでなく天皇の同化政策をとった。802年胆沢城を建設、アテルイは降服する。

アテルイの人物と指導力を認めた田村麻呂征夷大将軍はアテルイに蝦夷を統括させようと都に連れて行き助命を願うが退けられ副将のモレと処刑される。
 友人から清水寺にアテルイと副将モレの墓があるとの知らせを受け、グーグルで調べると確かに奥州水沢市による阿弖流為 母禮之碑とあった。

 清水寺は坂上田村麻呂ゆかりの寺で創建時に、自らの邸宅を寄進したと伝えられている。又清水寺はどの宗派の人も受け入れるとも伝えられている。
田村麻呂の計らいで、アテルイとモレの墓をひそかに造らせて供養したと考えると
一層 古代のロマンである。清水寺の本院の名が成就院であるのも、田村麻呂が
アテルイとモレとの交誼の証しとして、平和への願いが成就するよう名づけたと
私は考える。 

祇園の茶屋で午餐を頂いた折、掛け軸に「忘帰」の書があった。
清水寺管主の名が記されていた。帰るのを忘れる楽しいひと時を過ごされたのであろう。近年 年初にテレビ番組で、今年の一文字を書かれるのも恒例となっている、
これも清水寺と歴代管主の人間味と洒脱さ故であると得心する。

大宮神社の案内によれば、 滝沢郷の高丸(アテルイの一族)が反乱を起こした際、朝廷は田村麻呂を征夷大将軍に任じ節刀を賜り奥州に下向するも征することが出来ず、改めて伊勢神宮に朝廷を通じ天皇の勅命により神功の御分霊を賜り、大宮神社の神主と下向し平定する。この他、胡四王山神社に薬師如来像を納めなど、多くの蝦夷の神社にて必勝祈願している。

 田村麻呂は稀代の戦略家であったと言うより、蝦夷の人達の人間性を高く評価していたのである。宮沢賢治記念館の人やユースホステルの御主人他多数の方々から土地に伝わる言い伝えなのであろうが、蝦夷の阿弖流為側の正当性を語って頂き有り難く拝聴した。戦に正しいものはない。日本の近代化への陣痛の証しとして青森のねぶたでは田村麻呂も阿弖流為も主役の役回りであり続ける。

803年志波城造営される。 志波城祉には2,000のたて穴住居に関東・北陸・東北南部の徴兵(鎮兵)で守られた城であった。

ー東北のうぶごえに 続くー
# by kodaira220 | 2015-10-16 16:15 |

東北 片思い




岩手の三詩人


宮沢賢治

 東北の旅の最初に賢治の詩に出会ったのは 中宮寺金色堂である。 
堂の案内板の如くに。

             中尊寺
      七重の舎利(しゃり)の小塔に 蓋(がい)なすや緑の燐光  
      大盗(だいとう)は銀のかたびら おろがむと まづ膝だくば
      赦(しゃ)のまなこ ただつぶらにて もろの肱(ひじ)映えかがやけり  
      手燭(たぶ)ひ得ね 舎利の宝塔 大盗は礼(らい)して没(き)ゆる
 

宮沢賢治は明治・大正・昭和の37年の生涯で、膨大な詩・童話・短歌の他俳句・絵画を残し、新交響曲楽協会でチェロを学ぶ芸術家である。

又、郷里花巻で農学校教諭となり、科学と芸術を生かした農業の普及に努める。宗教にも造詣深く仏教に帰依した。宇宙科学にも独自の史観を持ち咀嚼し童話化し、心象風景を二次元・三次元の現象に図案化する。
知識を生活に活かす伝道師であり、教師であり、生きた実態生活の実践者であった。童話作家として子供や大人にも絶大なフアンは多いが、日本人の精神的支柱ともなっている。
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宮沢賢治記念館前のフクロウ像
由水常雄作 パート・ド・ヴェール技法


 宮沢賢治記念館に気になる短歌が掲載されている
  方十里稗貫(ひえぬき)のみかも稲熟れて み祭(まつり)三日空はれわたる   
稗貫のみかも=稗貫郡ばかりでなく 
文字が判読できないので、同館の理知的なお嬢さんに教えて頂くと明解な回答であった。
胸の名札を見ると同姓なので、ご関係の方ですかとお聞きすると遠縁ですとのことであった。賢治同様怜悧な頭脳の方とお見受けした。
併設のイーハトーブ館も賢治の心の様に明るく神秘的な画像が目を引いた。


高村光太郎


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 光太郎が30歳の宮沢賢治のアトリエを訪ねたのは43歳。 賢治の詩碑の為に「野原ノ松ノ林ノ・・」を揮毫したのは53歳であった。高村光太郎記念館に賢治への和歌がある。

みちのくの花巻町に人ありき
 賢治をうみきわれをまねきし

套屋の中が 光太郎旧居

賢治と光太郎の出会いと交流、光太郎の賢治への敬愛に溢れている。62歳で花巻の賢治の弟 清六氏の家に疎開し、その後稗貫郡太田村山口に居を移す。
 
一億の号泣
     論言一たび出でて一億号泣す。  昭和二十年八月十五日正午、
     われ岩手花巻町の鎮守 鳥谷崎神社社務所の畳に両手をつきて、
     天上はるかに流れきたる 玉音のひくきとどろきに五体をうたる。
     五体わななきてとどめあへず。玉音ひびき終りて又音なし。
     この時無声の号泣国土に起り、普天の一億ひとしく
     宸極に向ってひれ伏せるを知る。
     微臣恐惶殆と失語す。ただ眼を凝らしてこの事実に直接し、
     苟も寸毫の曖昧模糊をゆるさざらん。
     鋼鉄の武器を失える時 精神の威力おのづから大ならんとす。
     真と美と到らざるなき我等が未来の文化こそ
     必ずこの号泣を母胎として その形相を孕まん


 実は 現在でも 玉音放送に至る この終戦の決断の遅きことにより 如何に多くの無辜の国民、いわゆる沖縄戦の惨禍や、ソ連国境ほか各国との戦場の悲惨な出来事が絶ちきれなかったかと宸極と軍部に対する怒りと悲しみを持っていたが。

彫刻家 高村光太郎の玉音放送に対する詩 素直な思いをそのまま詩に出来る光太郎の魅力と凄さを感じる。光太郎記念館に飾られている彫刻は実直そのものである。人は貪欲と利得を捨てた時この様な彫刻が・文芸が・書がかけるのかと目からうろこが落ちる思いで見つめ直した。

「裸婦群像」「乙女の像」は昭和28年10月御前ケ浜に除幕された。一億の号泣 の詩を読んで、十和田湖を訪ねる。光太郎がこの乙女の像を創った思いの一端をこの眼で確かめたいと願って。
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乙女の像二体の手は 当然互に結び合っているものと思っていたが、至近距離で手を差出し見つめ合っているが互いの手は触れていなかった。

戦後から8年、かかる豊満な女性は日本中皆無であったが、裸身の乙女像は活力に溢れている。
健全な志を秘める復興日本人の理想の姿とする光太郎の愛国心のほとばしりを感じる。

悠久の自然の前の造形物は錆びて割れて地上に崩れるが、その時までに日本が立ち直って欲しいとの願いが込められていると感じる。
智恵子を亡くし、戦争で打ちのめされた日本の復興躍進と日本人一人一人の克己心と相互扶助の願いをこの像と十和田湖に託したものと思われた。
  

    見つめ合う口元堅く引き締めし 瑞穂のおとめ香気あふるる
    支え合い確かめ合う手差し交わし 乙女の誓い深くあまねき
    たくましき乙女の像のししおきに 堅き志操の活力を見る


 
   生けるもの                    道程

何事も戯れにして、何事も戯れならず      僕の前に道はない
戯れならずと言はむにはあまりに幼し      僕の後ろに道は出来る
戯れなりと言わば自ら悲し             ああ自然よ
我も生けるものなり                  父よ
公園に散る新聞紙の如く                僕を一人立ちさせた広大な父よ
貧しく、あぢきなく、たよりなく            僕から目を離さないで守る事をせよ
雨にうたるるまで                   常に父の気魄を僕に充たせよ
生けるものをして望むがままに生かしめよ    この遠い道程のため
                               この遠い道程のため


花巻疎開後の7年間は四季を通して自然を楽しむ山居生活であった。
「心はいつでもあたらしく、毎日何かしら発見する」 が光太郎の生き方であった。
このフレーズは小学校の校歌にも取り入れられているとお聞きする。

米なくばジャガタライモをわがくわん みどりの風に身をやしなわん
この山にながめてやまぬ山水の やみがたくしてわが道はゆく

この二首が光太郎の内からの発露であり、生活の全てを表している。己を歌に託して飄々と確固に生きる人生の達人に敬服する。


石川啄木

石川啄木26歳で没せし時、宮沢賢治16歳、光太郎29歳。この三巨人は岩手の土壌があって初めて花開いた同時代人であった。

 啄木は渋民村、現在の盛岡市玉山区渋民で生まれ、姫神山1,124mを仰ぎながら育った。姫神山は語りかけ、向上心・自尊心の高い啄木を励まし続ける。信仰の山でなく、精神を鼓舞し支える山に見える。姫神山なくして、啄木は成長し得ない目標の山であった。

      ふるさとの山に向いていうことなし
      ふるさとの山はありがたきかな

啄木館で歌二首に出会った。

蹣跚(まんさん)と夜道をたどる淋しさよ 
酒はひとりし飲むものならず    宮崎郁雨

演習のひまにわざわざ汽車に乗りて 
訪ね来し友と飲める酒かな   石川啄木

(宮崎郁雨は生涯そして没後も啄木の作品と人間を世に  出し続けた親友)


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啄木記念館の文字は金田一京助の書






函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌やぐるまの花    

 この一首を得て、初めて石川啄木が胸にすとんと落ちる。
岩手の人にとって石川啄木は特別の人である、岩手の宝と思われている。
詩が気質に合うのか、気質に詩が合うのか。岩手の一人一人の方々にそれぞれの啄木が居り、啄木の詩歌があるのだ。気質に理屈も文学もなく肌感覚で伝わる詩歌、
それが石川啄木そのものなのである。

ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな   「一握の砂」

新しき明日の来るを信ずといふ 自分の言葉に嘘はなけれど      「悲しき玩具」

東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる        「一握の砂」

啄木は自分の詩才を信じる。妻の節子や友人の郁雨や金田一京助も啄木の詩歌は世上に受け入れられ愛誦されると信じた。父と妻と若山牧水に看とられて
1914・4・13 啄木逝去26歳。
# by kodaira220 | 2015-10-16 15:46

東北 片思い


   東北名山 花の回廊
     3

   岩木山 1,625m

 岩木山の夏山は最も登り易い山の一つである。津軽富士と呼ばれ雄々しく、惚れ惚れする美丈夫の勇姿でそびえ立つ。津軽岩木スカイラインで八合目駐車場へ、
九合目の鳥の海まではリフト。リフトで登った中年女性が岩場に所在無く腰を掛けたり、散策をしている。“これから登るんですか”と聞かれる。
高齢者に見られたのかも知れない。“夫が君はここに残るように言われたので待っているんです”と続ける。 少し進むと初老の夫妻が見晴らしの良い処に座っている。“私たちはここまで”と自分たち流の登山を説明される。

高齢者や夫婦のどちらかが万全でない場合 こんな登山の楽しみ方も一考の余地があると教えて頂いた。

月山や鳥海山の高山植物の宝庫と比べる術もないが、シモツケソウの白花に混じり薄いピンクが頭を挙げ、ミヤマキンバイやイワウメがところどころに見られた。
期待したミチノク コザクラは休暇旅行にでも出かけたのか不在であった。

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登山路のガレ場は大小の岩や石が乱雑に堆積している。昨日会得した 岩の平な部分でなく、岩の突起部に率先して足を置く方法をとる。
一見余分な労力をかける様であるが、回転が容易となり登りが楽しく、且つ足の負担が軽減される。


岩木山山頂からのパノラマ

気を付けて見ていると、早く登る人や山のベテランらしい人達は 皆岩の突起を当然の様に踏んでゆく。これは教えてもらったことはないが、初歩の山歩き術なのであろうと得心する。

 頂上付近の傾斜はきついが距離が短いので、短時間で頂上に到着する。
単独の私が写真を撮って頂くと、これをきっかけにグループ同士、夫妻同士がカメラに納まることとなり、楽しい交歓の場となる。

この日の岩木山は障害者のグループの方々の登山も行われていた。
私も以前 六つ星山の会に属し視覚障害者の方々との登山を経験しているので、
岩木山を登る屈託のない笑顔や歓声をお聞きすると好天に感謝し、全登山者と好天との一体感を共有した。


 八甲田山火山群  赤倉岳1,550m

「八甲田山死の彷徨」の遭難事件は映画で目にしたことはあったが、八甲田山と言う山があるのではなく、大岳を中心とする北八甲田火山群と南八甲田火山群と呼ぶ16峰の八甲田山系の総称であることを登って初めて知り得た。
八甲田山系が更に大きな丘陵地帯の上に載っているので、広大な景を富士山の如き高山から見下ろすのでなく、大きな山の頂から起伏に富んだ山の連なりを大連峰のうねりとして感じとる。

 主峰の大岳1,584mを目指して赤倉岳1,548m、井戸岳1,550mの2峰を越え稜線を下ると、大岳避難小屋に着く。青天は三日に一度と聞いていたが、台風がそれたので一点の曇りもない快晴。

赤倉岳山頂で単独行の颯爽たる若い女性の笑顔に会う、“井戸岳でイワブクロがきれいですよ”と教えてくれる。“気をつけて”の声を置いて下山していった。

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眺望の利く山脈と陸奥湾の海面の青さ、遠く雲の上部に名峰岩木山も望める。井戸岳の山頂部にはガンコウランやミズズオウと初めて掲示板で知るワタスゲの様な細長い花々が群生する。お花の群生には多数のマルハナバチが密集して蜜に
イワブクロの群生    乱舞する。
 
大岳から井戸岳のコースをとる外国からの女性二人と言葉を交わしたが、先に日本語で挨拶された。日本で外国語を教えている教師の方々と見受ける。
純然たるトレッキングを楽しんでいるが、イワブクロ等の植物には一顧もしない。
又 私は小屋のベンチで昼食を頂いたが、彼女たちは見晴らしの良い山頂付近の岩の上に長い脚で腰かけ昼食を愉しむ、これも日本人トレッカーとの違いであろうか。

 過信のハイスピードで登って来たせいか、今までに蓄積された金属疲労なのか突然右ひざに疼痛を覚える。汗も掻かない内の出来事であるが、大岳登頂を断念する。 
井戸岳・赤倉岳を引き返すコースをとる。麓に近づいた頃ギンレイ草の白い花を久しぶりに確認した。

 八甲田山の景観の一つは毛無岱(けなしたい)=Wetland と呼ばれる大規模な緩斜面の湿地帯で、上下二段に分かれる。上段を上毛無岱、下段を下毛無岱 どちらも湿原の花々で間もなく彩られるであろう。

山へのアプローチの整備の良さはトップ・クラスでロープウェイまでの道路は二車線である。山容は1,200m位まではブナ林や落葉松、その上は青森トド松、そこからはい松。ドライブを楽しみ、ロープウエィからは八甲田山16峰の景観を容易に楽しむことが容易な山である。



 八幡平 1,613m

 八幡平スピードラインは朝霧におおわれる。八幡平駐車場に近い熊沼附近に近づくと視界は3mとなる。更なる濃霧の恐れからユーターンする。3km程戻ると雲の闇の霧が動き上方への流れが強くなり、再度ユーターンして山頂駐車場へ。
 先着は2台の車両のみ。 霧の趨勢を見極め、時間を稼ぐ為しばし佇む、霧の晴れの見切り発車で登山を開始する。

霧の中山頂への道は 平面的な岩が敷きつめられ、運動靴での歩行が楽な様な配慮がみられる。
道の両側にはシナノキンバイ、ハクサンチドリ、名残のニッコウキスゲ、トウゲブキが出迎える。
ここも花の回廊である。花達を守る様にオオシラビソ(青森トドマツ)が林立する。

八幡平大地は東西18の火口湖があり、火口には遅くまで雪が残るので春の花も夏に見られると説明板にある。

八幡平山頂までは、散歩の延長で気楽に往復できるので、高齢の夫妻や子供連れの家族が目だって増えて来る。いつしか霧も晴れて視界が良好となっている。
感性豊かな研ぎ澄まされた感性の芽生えの時期の子供たちや、情感豊かな年配者の方々が豊かな自然の中で伸び伸びと過ごして頂く喜びが伝わってくる。

ー 岩手の三詩人に続くー
# by kodaira220 | 2015-10-16 14:34 |

東北 片思い

東北名山 花の回廊

   2  
早池峰山 1,917m

 エーデルワイズに最も近い花はハヤチネ・ウスユキソウと本で読み出会いの楽しみを抱いた。
名前自体も麗しい響きがある。 道の駅はやちねを過ぎ、河原坊登山口の標識を見ていると岩手ナンバーの若者も標識を確認している。これから登るところだと言うので、駐車場まで先導役をお願いする。

はやちね山荘手前に大きな車止めがあり、計100台は収容可能。
ここから登るコースは河原坊と小田越の二つ。私は登り3時間の河原坊コース、
小田越コースは2時間半であるが登山口が離れているので、そこまで徒歩20分かかるとの事で若者はそちらを選択し、帰路は河原坊に下ると慣れた様子であった。

 登山口地点に入山ノートがあり、天気欄に曇りと記帳する。15分前の組も曇りと記録されていた。昨日は35度の高温快晴であったので、今日も日焼けを覚悟で長袖の山シャツ着用・雨具持参 。駐車場も花に囲まれているが、登り始める道も花達が出迎える。シシウドやオオカサモチの白い大輪の花が女性の花かんざしの様にきらびやかに揺れる。胸元の高さの花であるが、2メートル近い背丈の群生地帯もしばらく続くが、頂上部に近づくと背丈を地面に近づける。 時折ハヤチネトラノオが青のグラデーションの穂先を見せる。

 直登する岩や石の堆積のそこここに一輪また一輪とウスユキソウが左右から顔をのぞかせる。傾斜のきつい、風がまともにあたる岩だらけの斜面に根を張るウスユキソウは美少女とは言いにくいが心なごむ。一株また一株とまばらであったものが数株の単位で現れると喜びが込み上げてくる。

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ミネウスユキソウも数本でひょろりとした姿は他山でも見かけるが気高さを誇示する群落は早池峰山ならではの貴重な出会いである。

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ハヤチネウスユキソウ
        これぞ東北の星ならぬ
        希望の星と輝く

ガレ場のふちの多少の土の部分には 待ち望んでいた早池峰ウスユキソウが本清楚な花の姿で群れて咲いている。花の精霊たちに出会う喜びを満喫すると登山者冥利に尽きるとの至福の感を味わう。

タカネナデシコも白い五弁の背筋を伸ばし気品のある容姿で迎えてくれる。白い蝶が飛来するとナデシコの化身とも思える。写真を撮ろうと思った時、花はすでに後方に見えなくなり、撮り損ねる、高値の花も又楽しい思いとして残る。

 登り始めて40分 広がる白い雲を押しのけ太陽の強い日差しが上空の一部に青き空を見せる。十分後・二十分後にも 一度づつ青空がのぞいたが、それ以降は終始霧が流れ白雲が覆いかぶさる。台風の影響でさらに悪天候になるか、念力で晴れ間がのぞいてくれるのか、雲行きは予断を許さない。

頂上に近い千丈ヶ岩に近づいた辺りでガスが濃くなり風が激しくなる。
頂上の手前の急斜面で、早朝別のコースを取った若者が小田越コースの頂上から降りて来るのに出会う。“裏側の小屋のコバイケイソウが綺麗ですよ”と教えてくれる。
小屋では着替えを終わった数名のグループに出会う。コバイケイソウは湿原や関東の山々でもお目に掛かるが、ここ早池峰山の避難小屋を下った辺りの見わたす限りの広大な場所に純白の花の群れが質量共に最適な花の状態と時期であることを告げる。

月山、鳥海山、早池峰山の三山はウスユキソウの花の宝庫である。
ヨーロッパ・アルプスではエーデルワイズを見たいと願う観光客・トレッキングの愛好家が沢山居られ アルプスの星と呼ばれるが、この三山では天の川の星座や星達を数える如くエーデルワイスを心行くまで堪能できる。

極東の小さな島国であるにも関わらず、高山植物の種類が最も多い国であると思われる。高山植物の本来の花の美しさや色合いを保っているとも思われる。あるべき自然の体系や、水と空気の清浄さが守られてきた証であり、人類の宝物であると感じる。

茶室内には洗練された活け花や研ぎ澄まされた空間の美がある。日本庭園にも豊かな自然の景観を取り入れる、水の流れや樹木・岩石を組み合わせたの美意識も又洗練・昇華された美しさがある。

一方、山野や道のべの一輪の草花の可憐さ清浄さも譬えようのない美の発見を生む。
広大な自然の中で、景観を一点に絞り自ら見いだすミクロやマクロの美の世界を見ることも可能である。同時に、移りゆく自然の変化や自然現象を体感し己の記憶・経験を豊かにすることも登山者の好奇心に与えられたものである。
# by kodaira220 | 2015-10-16 14:01 |