50歳のある日、同期会の席で、「キリマンジャロに登る」という野太い声が聞こえて
来る。
ヘミングウェイの著書「キリマンジャロの雪」のあの山かと聞くと「そうだ!」
と足高山の会の会長 大塚長芳が得意顔でうなずく。
酔った勢いとは恐ろしい、キリマンジャロの女神が乗り移ったのか
「私でも登れるか」と聞いてみた。
「お前も大丈夫だ」の一言で、本気でジムに通い、胴回りを83cm、
体脂肪を19にまで落とした。全くの素人ゆえに、山の道具一式の
購入の選別から逐次丁寧な指導を受け、装備と外見だけは整った。
山登りの手始めは富士山、富士山、これまた富士山。
四度目はいよいよ本番である。
タンザニアー南緯一度。ナイロビからマラングゲート(国立公園管理事務所)
1855mに立つ。総勢17名、登山隊 隊長は武藤浩章、副隊長谷津範之、
脇の堅固は大塚長芳、牛窪光政他のメンバー。
顧問の先生方は北川進五元校長、大川信夫、井上孝郎、齋藤芳徳の
諸先生方。
タンザニアの観光収入源の一つはキリマンジャロであることは言うに
及ばない。
海外からの登山者には山のガイド、調理のコック、荷物を担ぎ上げる
ポーター、山道で枯れ枝を切り薪にして担ぐ者も交じり、
登山者以上の人員が配置される。
湿潤たる森林帯を抜けると、ウスユキ草の仲間(エーデルワイズ)の
連なる草原帯、時折の寒風の砂れき帯、岩石を巻いて山頂の
ギルマンズ・ポイント5,685mに登頂。
山頂の標識の前に、足高山の会の旗を掲げ記念撮影し,寒冷の中
手袋越しに握手を交わす。雲海の水平線の上部を茜色が差し始め、
旭日が黎明の時を告げる。
次のウフルピークへの同行を促されるが、山頂の一角に到達した
登山初心者は残り、後続を待つ。最高峰ウフルピーク5,895mへ
登頂し、氷河帯を踏みしめたのは 4名であった。
こんなエピソードもある。標高5000m付近まで一列縦隊で登って
来たが、疲労と寒気に体力が奪われ、少しずつ隊列が乱れ始めた。
そんな時「隊を分けよう、早く登れる者は先に登ってもらおう、
残りはゆっくり行こう。」と大塚から提案された。
板橋・出島・清水・牛窪・大井が先発隊として先行した。
しばらくすると、後続隊のH君が突如「暗くて道がよく見えない」
と訴え出た。高山病の一つの症状である。大塚・谷津・ガイドの
ングマの相談結果、直ぐに下山して医師の診断が必要と判断された。
直後、大塚が「俺が一緒に降りる」と宣言するや否や、H君を
かばいつつ、ングマと下山して行った。
頂上5,685mから数百メートルの地点であった。
登山道の折々には、井上先生から野生のカメレオンを手のひらから
見せて頂いたり、高山植物の名前の多くを解説して頂いた。
北川先生からは夜ごとアフリカの天空を彩る星座や南十字星、
白鳥座の北十字星などの懇切な野外授業を受ける。
又、キリマンジャロ登山の留守役として、白澤滋民先輩が地球の
裏側から衛星電話口でリアルタイムのホットラインで見守った。
幅広い年齢層の参加者がそれぞれに守備位置を守り、
アフリカの最高峰に登頂出来たことは、足利高校 並びに
北川進五元校長先生のイズムが脈々と受け継がれているあかし
であった。 了。